2012年11月20日火曜日

現地レポート⑤ ~第63番学校(知的障害)~



ハンオール地区の知的障害のある子どもたちが通学している1975年に設立された19年生までの学校である。ウランバートル市で一番寒いと言われているハンオール地区は、ウランバートル市の端に位置する。1990年の民主化以降、仕事を求めてウランバートルに来た人や、子どもに障害があることがわかったため、ウランバートルの学校に通わすために引っ越してきた人が多い。ハンオール地区の大部分はゲル地区が占めている。現在、215人の知的障害のある子どもが在籍している。全員、ゲル地区で暮らしており、親は無職もしくは雇われ遊牧民である。
ハンオール地区は、1~14ホロー(ホローとは、日本だと〇丁目みたいなもの)まである。第63番学校の教員は、8月中旬より14ホローすべての担当を決め、ハンオール地区の社会部と協力をして障害のある子ども、学校に通っていない子どもを調査し、学校に行っていない子どもがいれば、親に学校に通わせるように説得をしたり、学校に通っている子どもたちの生活環境を見回ったりしている。モンゴルでは、障害のある子どもを自宅に隠す傾向があるので、1年生のクラスに12歳くらいの子どもがいることも珍しくない。その多くの子どもは、先生たちの調査活動により、学校に通うことが出来るようになった。
教員は27名、そのうち、特別支援教育を専門に学んだ先生は3名(ハンガリー1名、ロシア2名)である。その他の教員は教育大学の卒業生である。
子どもたちの障害は年々重度化しており、車いすの子ども、重複障害の子どもが増えている。ゲル地区にある学校なので、車いすでの通学は非常に難しい。学校では、ワールドビジョンより寄贈されたスクールバスを1台保有している。バスは、毎朝6時に学校を出発し、子どもたちを迎えに行っている。21人乗りのバスだが、スクールバスを必要としている子どもの数は現在60人以上である。複数回往復したり、教員が通勤の際、子どもたちを迎えに行ったりして、工夫している。このスクールバスは、教師が順番にガソリン代として、12tgずつ出すことにより運営されている。決して、先生たちの給与は自分たちが生活するのに十分な金額ではない。教員たちはいう。「子どもたちが学校に来ることが何よりも大切。通えなくなることの方が問題だ」と。
冬はあまりにも寒く、子どもたちは命がけで学校に通わなければならない。スクールバスが来る間、授業が始まるまでの間、寒さに凍えながら待たなければならない。毎日、学校に通える環境を整えるには、学生寮が必要である。158人の保護者も学生寮を希望しているが、運営面で問題があり、現在、設立される目処は立っていない。ウランバートルには、知的障害の子どものための学生寮付きの学校がない。学生寮のある学校があれば、地方の知的障害の子どもたちも学校に通うことが出来るようになる。
在籍児童数で国からの学校支援金が決まるため、特別支援学校の場合は少ししかなく、子どもたちの学習に必要な教材・教具を購入することが出来ない。第63番学校の場合は、保護者の協力を得ることが、非常に難しいため、先生たちが物を作り、販売し、資金を得て、ある程度集まると、代表の人がウランバートルよりも安く買える中国まで長期休みに買い出しに行っている。
子どもたちは、9時から授業が始まり、15年生は1245分まで、7年生は1330分まで、8,9年生は曜日によって異なるが、1415分あるいは1530分まである。この学校は1部制である。基礎科目と自立活動科目があり、自立活動科目は、個人差があるので、担任が個人かグループか授業形態を決め、実施をしている。
文部科学省の基準では、1クラス12人までの子どもに対して、担任1人となっているが、もっと少人数での指導をしたいと思っている。
肢体不自由児クラスも1クラス、5年前に設立された。現在9人在籍している。担任一人では大変なので、学校の判断で、補助教員1名を雇っている。他のクラスにも車いすの子どもはたくさん在籍している。
教科書は通常校と同じものを使用しているので、教員がそれぞれ工夫をして指導をしている。知的障害の子どもにあった教科書が欲しいと常々思っている。
1年ほど前に訪れた時は、床が抜けそうで、天井も落ちてきそうなほど古い建物の中で子どもたちは学習していた。この夏、アメリカとドイツの支援により、建物の大改修が行われた。9月に訪問した際は、子どもたちの教室はきれいに改修されたが、廊下には物が散々していた。これは、校長室、職員室など働く人々の部屋を、教室の後に改修をしたためである。「子どもの教室確保が優先」という校長先生。言葉も行動も「子どもが第一主義」である。
この学校には大きな運動場がある。体に障害のない子どもたちが思いっきり運動するには、十分の広さがある。子どもたちは、身体を動かすのが好きだ!休み時間になると、運動場に出てきて、元気に遊んでいた。
教室にある、子どもたちの机・椅子は教師の手作りである。姿勢保持の難しい子どもの机・椅子も先生たちの工夫によりつくられていた。
 新川真有美 

現地レポート④ ~第55番学校(知的障害)~



バヤンズルフ地区の530人の子どもたちが通学している小中高学校で、1978年に設立された。1989年までは旧校舎のみで、4クラスしかなかった。設立当時より知的障害のある子どもたちも受け入れ、現在は480490人となっている。小中学部は、全員が障害のある子どもたちである。知的障害、自閉症、ダウン症、脳性麻痺など様々な障害をもっており、比較的軽度の子ども、発達障害の子どもが多いのが特徴である。高等学校は職業訓練(コンピューター、木工、縫製、美容師、調理師)を目的とした健常児も多く在籍している。職員数は、計78名である。そのうち、教員が55人、職人が23人である。その中には言語聴覚士(ST)、理学療法士(PT)、作業療法士(OT)も含まれている。
小中学校は、教科書は通常校と同じものを使用しているが、通常学校とは違う独自のカリキュラムを用い、授業数、指導法なども工夫して授業を行っている。例えば、5年生だけど、4年生の教科書を使用するなど、学年にとらわれずに使用している。先生たちは、4年生のモンゴル語、4年生の算数の教科書を作成し、その教科書も使用している。また、他の学年も教科書を作成していきたいのだが、時間と経済的理由で止まってしまっている。小中学校の成績は、国の評価方法と同じ方法で評価をしているが、特別に個の能力を配慮して、担任が成績を付けている。担任一人で1クラス1215人を受け持っている。
小中学校終了後、高校入試を受け、合格したものだけが高等部に進学できる。合格できなかったものは、自宅にいることになってしまう。高等部で職業訓練を受け、技術を身につけた者の4050%はその技術を活かして、働いている。大学や専門学校に進学をする卒業生(健常児もしくは軽度障害)もいる。「1つのことを集中して技術を身につけた学生を育てた方が、社会で生きていく力が身に付くのではないかと考えている。そのため、家族を守る、ルールを守るなど社会的な生活を学ぶ科目を重視したカリキュラムを作っていきたい」と校長先生は言われた
 新川真有美 

2012年11月17日土曜日

現地レポート③~第29番学校(聴覚障害)~



1964年に設立されたモンゴルで最初の特別支援学校である。設立当初は、盲聾学校であったが、現在は聾学校(第116番学校)が分割され、モンゴル唯一の聾学校となっている。340人の難聴と聾の子どもが在籍している。そのうち200人が地方出身であり、2つの学生寮で生活をしている。教員は56人である。聴覚障害の専門知識を持っている教員は12人いるが、半数が近々定年を迎え、若い専門教員はいない。職員は120名であり、聴覚障害の人も多く働いている。
国の基準では1クラス8人までとなっているが、実際には1クラス12人が在籍している。そのような学習環境であっても、入学の出来ない子どもたちが多くいるのが現状であり、年々、重度の子どもが増えていると教員たちは感じている。
子どもたちの聴覚障害になった理由は、薬の副作用、遺伝、妊娠中のアルコールやタバコによると考えられるなど様々である。理由のわからない子どもも多く、聴覚障害になった時期によって、子どもたちの発語も様々である。
補聴器は高価で、個人での購入が難しいため、補聴器をつけている子どもはほとんどいない。2009年にFM補聴器(ロシア製)12台が使用できるクラスができたが、1クラスだけである。
手話と口話法、指文字を用いて、教科指導が行われている。指文字は1年生から指導し、手話は挨拶などを小学校から使用している。7年生から、手話による授業が始まる。アメリカ大使館から英語の手話を学び、英語の授業を進めている。モンゴルでは、手話が地方によって違うため、基準を作ろうとしている。
1990年までは、ソビエトのカリキュラムにより手話の使用が禁止されていた。そのため、聴覚障害者にとって、手話は母語同然なこともあり、コミュニケーションなどに支障があったという。
モンゴルでは、日本のように6歳になったら絶対に学校に通わせなければならないという法律はなく、保護者が学校に行かせる時期を決めることができる。全国で就学前検査も実施されていない。そのため、全国でどのくらいの児童が聴覚障害なのかは把握できていない。学校に通っていない聴覚障害の子どもも多くいる可能性がある。
1年生のクラスを見学させていただくと、全員6歳児クラスと、年齢が様々なクラスがあった。生活年齢が違えば、知識量も違うので、6歳児クラスとその他のクラスに編成されている。今年は、16歳の1年生の子どももいた。
絵を描くのが得意な子も多い。神奈川県とモンゴル国立教育大学との共催で行われる「アジアの子どもの絵画展」にも多く出展している。
職業訓練教科もあり、専門の教員が専門の部屋で指導している。必要な備品もそろっている。「美容師」「調理師」「木工」「縫製」などの技術を身につけても、就職が難しいのが現状である。
言語聴覚士(ST)は、口話法に力を入れており、120分ずつ個人指導している。
聴覚障害の子どもたちは、知的に遅れのない、身体に障害のない子どもが多い。そのため、通常学級で使用している教科書の学習内容は理解できることが多い。指文字や手話などの独自の教科の教科書が必要であり、作成に努めてきていたが、経済的理由により現在は止まっている。
聴覚検査機器は、日本の聾学校のように揃っており、専門の医師もいる。先生たちも聴覚障害教育に特化した教育を受けてきている先生たちの力により、学校全体のレベルも高い。

新川真有美

2012年11月14日水曜日

Монгол дахь үйл ажиллагааны тайлан ② ~25дугаар сургуульд (тусгай сургууль) ~



Сүхбаатар дүүрэг, Чингэлтэй дүүрэгийн оюун ухааны бэрхшээл бүхий хүүхдүүд сурдаг энэхүү сургууль 1-9 дүгээр ангитай юм. 2 ээлжтэй энэ сургуул нь 1976 онд тусгай сургуулийн журмаар байгуулагдаж байжээ. Одоогоор нийт 22 ангид 250 хүүхэд сурулцдаг. Эцэг эхчүүдийн зүгээс хандивалсан сургуулийн 2 автобус хүүхдүүдийн хэрэгцээнд явдаг байна.
2008 оноос Дауны синдромтой хүүхдүүдэд туслах нийгэмлэгээс Даун синдормтой хүүхдүүдэд зориулсан анги нээгдсэн. Одоогооор даун синдромтой хүүхдүүдэд зориулсан 2 анги байдаг бөгөөд насны хувьд 6-10 нас, 10-12 нас гэж хуваагдан суралцаж байна. Дээрхи нийгмэлэгийн тусламжтайгаар зохион байгуулагддаг байна.
Мөн Япон, Америк, Аутрали зэрэг улсуудаас хүмүүнлэгийн тусламж авдаг байна.
Бусад сургуулиудаас өөр онцлог нь АНУ-ын мэргэжилтэнүүд голчлон Авсрили, Япон зэрэг улсуудын сайн дурын ажилтанууд Монгол ажилчуидтай нэгдсн баг бүрдүүлэн хүүхэд тус бүрийн онцлог хэрэгцээнд тохирхуйц заах аргаIEP-ыг нэвтрүүлдэг байна. Өнөөг хүртэл оюун ухааны бэрхшээлтэй х үүхдүүдэд зааж байсан аргатай харьцуулан хүүхэдүүдийн ангид тохирсон төлөвлөгөө боловсруулсаны үр дүнд дасгал, сурлага, үйл ажилллагааны хөгжил нь илт ахицтай байгаа нь мэдрэгдэж байлаа. Урьд жилүүдтэй адилхан Орос сургалтыг дагнасан заах арга бус янз бүрийн мэргэжилтэн хүмүүстэй нэгдсэн баг бүрдүүлэн зааж байгаа нь илүү үр дүнтэй байгааа ажээ.
Гэр бүрээлээс нь хүүхдүүдийг дэмжих бололцоотой хүүхдүүдийн өсөлт хөгжилт нэлээн ахицтай байдаг бөгөөд, сурлаганд ч сайн нөлөө үзүүлдэг байна. Үүнийг асрагч багш нар нь мэддэг тул аль болхоор тэдний туслалцааг авахыг хичээдэг болжээ. Үүнийг мэдэрсэн нь гэсэн сайн дурын ажилтануудын нөлөө их байсан гэж хэлж байв.


Шинкава Мaюми